Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
南海支隊の後退

1942年9月中旬までに、堀井少将の率いる部隊は、オーエン・スタンレー山脈に配備されていたオーストラリアの守備軍を、ココダからポートモレスビーまでで最期の一番の高地であるイミタ尾根まで押し戻した。状況はきびしくなっていたものの、兵士の多くはポートモレスビー到着はまもなくだと考えていた。これを迎え撃ったのは、モレスビーを出発してまだ意気盛んなオーストラリア軍部隊であり、さらに彼らは、オアーズコーナーに陣取った砲兵の援護射撃を受けていた。

他の地域での不利な戦況は、堀井司令官をして「我が南海支隊のみがこの地域の敵を圧倒している」と発言させた。しかし第17軍の司令部は、ソロモン諸島の戦況の悪化や、ミルン湾における敗北、そして東部ニューギニア北部海岸への連合軍の上陸を予想して、9月23日に堀井の部隊に対して撤退し守備を強固にせよとの指令を出した。ガダルカナル島を再奪回し完全占拠した後に、ポートモレスビーの再攻略を予定するというのだった。

南海支隊の一部であるスタンレー支隊は、イスラバとギャップとココダにおいて守備体制をとることになった。撤退の途中、連隊の構成が変更されたものの、それには歩兵第144連隊及び歩兵第41連隊が含められ、これに砲兵部隊と工兵部隊が支援をした。歩兵第41連隊主力部隊を含む堀井の他の部隊は、ブナ地域まで戻り、防御を強化するように命令された。この命令には、ブナからココダまでの道路の整備と修復という楽観的な項目が含まれており、これは次回の攻撃の準備のためであるとされた。

撤退は日本軍にとって過酷で悲惨なものであった。次の数ヶ月間はバサブアに数回かかなりの量の補給物資が揚陸されてきたものの、山中に残ったものにとって、食糧も弾薬もほとんど底をついていた。現地での食糧調達隊は、脚気やマラリア、そして赤痢や熱帯性潰瘍に苦しむ兵士たちに、十分な食糧を供給することができなかった。また、元気な荷物運搬人たちも極度に不足してきた。海岸へ向かって進む兵士や労働者や他の支援部隊の要員は、本当に必要なものを除いてほとんどのものを捨て去りながら進んだ。オーストラリア軍の追撃を遅らせるために残った歩兵たちは、もしもポートモレスビー占領をいつか果すことができるのならば、戦死した戦友たちの払った犠牲を再び繰り返さなければならないことを悟った。

オーストラリア軍第25旅団の部隊が、9月28日にイオリバイワの日本軍陣地に進入した際、陣地は既に放棄されていた。その後の一週間、オーストラリア軍は退却して行く日本軍を絶え間なく攻撃しながら、補給線の強化に努めた。頑強な運搬人の不足は、食糧と弾薬の空中投下によって一部補われた。オーストラリアの最高司令部はこの追撃作戦の初期の成功を喜んだ。そして、日本軍の反撃がないことを、敵が完全に士気を失い、敗走している証拠だと理解した。しかし、10月におきた抵抗は、兵力が極度に減少し、必需品が不足していても、日本軍はブナまでの地域の再奪回を容易に許さないということを示していた。

最初の日本軍の激しい抵抗は、歩兵第144連隊第2大隊によって、エオラクリーク南側のテンプルトン浅瀬付近において、10月13日に行われた。これは南海支隊の司令官がオーストラリア軍の追撃を遅らせるために計画した守備作戦であった。この村の北側の高台に設置されたもう一つの守備線は、スタンレー支隊がイスラバとココダに向けて退却した10月28日まで持ちこたえた。その後日本軍は、ココダとクムシ河のワイロピ渡河地点の中間にある、より強固になったオイビとゴラリ付近の守備陣地へ後退して行った。

この退却作戦の時期に日本軍の死傷者が増加し、次 々と兵士が病気で倒れていった。傷病兵の後送はますます困難になり、多くの兵士が見捨てられたと言われている。オーストラリア軍は11月2日にココダに戻り、退却過程で放棄された他の陣地同様、そこが完全に放棄されていることに気がついた。

歩兵第41連隊の主力部隊はオイビにおいて強固な守備陣地を形成し、11月3日に始まったオーストラリア軍の主力攻撃をくいとめた。しかしオーストラリア軍は、食糧と弾薬の後方からの確実な補給に支えられ、日本軍部隊を圧倒し始めた。11月8日には、ゴラリ道沿いとゴラリ道から南へ枝分かれする三叉路あたりで、孤立した日本軍部隊は周りを取り囲まれながらも戦わなければならなかった。南海支隊の司令官は、戦場に近く、彼の部隊のほとんどと連絡が取れなかったが、11月10日に海岸へ向けての全面退却を行う決心をした。

スティーブ·ブラード記 (田村恵子訳)


Printed on 05/18/2024 01:37:40 AM